私は朝と夜でまったく異なる二つの状態にいます。
朝はまるで起動したばかりのコンピュータのように速いですが、何もソフトウェアを実行していません。夜は一日中動いていたコンピュータのように、少しカクつくこともありますが、すべてのプログラムを即座に呼び出すことができます。
自分の感情をコントロールできないとき、私は寝ることにします。一度か二度の睡眠の後、気分は再び落ち着きます。
沈睡は一瞬#
寝ることは死に似ています。誰かは疲れすぎて眠りに落ち、誰かは気分が悪くて眠りに落ちます。誰かは眠りたいのに眠れず、誰かは眠りたくないのに眠りに落ちます。
睡眠の中で、私は一時的に消えます。人は時間の中に生きており、それは連続した存在です。私たちは自分がどれだけの時間眠っているのかを感じることはありません。沈睡は私たちにとって一瞬に過ぎません。
人が実際に存在する時間は今だけであり、過去のすべては一瞬であるからこそ、私たちは虚幻を感じるのです。
生存の霧#
生存は最大の宗教です。
私たちと一緒に問題を議論できる人は、すべて生きている人です。死の念が深い人を除けば、みんな生きていることに反対していません。その中で、圧倒的多数は生きることを追求しています。したがって、生存は最大の合意であり、「真理」となります。だからこそ、私たちはこの教義の束縛を突破することができず、言葉少なに生死を語り、一葉に目を遮られます。
そして、この最大の宗教を突き破るのが死です。本稿は死生由勢と考えます。すべての存在は法則に従い、特定の外観を持っています。人も例外ではありません。したがって、死は存在の載体の喪失に過ぎません。載体が無事であれば、自然に生きるでしょう。それは私ではないかもしれませんが、私は何者なのでしょうか?
私は何者か#
死はただの載体の喪失であり、生きることは載体の再現です。
儀式と客観主義#
出生と死亡は、巨大な儀式のようなものです —— 招魂。こうした考えがあるからこそ、私たちの葬儀では常に魂が良い方向に行くことを表現しようとします。以前は葦で編んだ巨大な松明を使っていましたが、今は小さな懐中電灯で前を照らし、死者を送り出すことを意味します。ただ、この儀式はあまりにも客観的ではありませんが、儀式は必要です。これが客観主義です。
自分が連続した存在だと思うこと#
目が覚めた後、私はまだ私でしょうか?もちろん、私は私です。載体を再構築した後も、私は依然として私です。人は連続した存在であり、ただ自分が連続していると思っているだけです。人が認識できるのは連続だけです。不連続な時間は人にとって無意味であり、超客観です。
「私」は幻想である#
「私」もまた一つの客観的概念であり、真に「私」が存在すると考えることは、実際には幻想です。
客観的だからこそ虚幻#
正言若反、十分に客観的であることが、最大の虚幻です。